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2016.05.26

【企画人:A面】藤沢宏光さん(「ミサキプレッソ」「ミサキドーナツ」オーナー/音楽プロデューサー)/「すべては、過ぎ去った過去にある」。その中からなにを活かせるのか?を考える企画術

 

【インタビュー「企画人」 】
「企画人」は自由だ。働き方も自由だ。理想と現実のギャップを埋めるチカラ、「企画力」があれば、仕事も、はたらきカタも、プライベートも、人生はもっと自由にデザインできる。多様な企画力を駆使してその人らしい生き方を実現している先人たちを訪ね、「A面:生き方・働き方」「B面:企画のポイント」をテーマに話を聞く。

 

藤沢宏光さん

 

今回の「企画人」は、神奈川県三浦市にあるカフェ「ミサキプレッソ」とドーナッツ店「ミサキドーナツ」のオーナーであり、音楽プロデューサーの藤沢宏光さん。10代から音楽制作やマネジメント、アーティストのプロデュースを手がけてきた藤沢さん。 テクノミュージックの御大、YMOが散開した1983年から13年間、高橋幸宏さんのマネージャーも務め、その後、THE BOOMの宮沢和史さんや小野リサさんなど、数々のアーティストのプロデュースもしてきました。そんな藤沢さんが現在、音楽業界と距離をとり、神奈川県の“消滅可能性都市”三浦市でカフェやドーナツ店を手がけるようになったワケを伺います。
 

 

※記事は【A面—生き方・働き方】と【B面—企画のポイント】の2回に分けてお届けします。本記事は【A面】です。

 

何も持っていないからこそ、なんでもやった20代

藤沢宏光さん

 

Q.数々の有名なアーティストをプロデュースされてきた藤沢さん。最初からYMOの高橋幸宏さんのマネージャーとして、音楽業界に入ったのでしょうか?

 

僕のキャリアのスタートは1970年代。当時全盛期だったフォークソングに影響を受けて、高校生のころから地元の広島でイベンターみたいなことを始めたんです。当時はまだ、地方に東京のアーティストを呼ぶプロモーターという仕事が確立されていない時代で、思えば、無謀なことをしたもんです。

 

中国地方各地でコンサートを主催していました。甲斐バンドや松山千春、矢沢永吉、ソロデビューしたばかりの浜田省吾などを呼んだり、関西で活動するフォークシンガーたちの中国地方のライブハウスツアーをやったりしていました。高校在学時代からそうした活動に明け暮れていたんです。

 

そして20歳のときに、すでに広島から上京していた仲間と下北沢で舞台制作会社を起こしたんです。そこには、ピアノの調律師やPAのエンジニア、楽器のクルーなど音楽周りの技術者たちがたくさん集まっていて、僕だけが技術を何も持っていなかった。だけど、広島時代の僅かな経験を生かして、できることは何でもやりましたね。重たい楽器を運んだり、ミュージシャンの飯の世話から酒の世話、ギャラ交渉から契約まで、今振り返っても、あの時代にどんなに不条理で過酷な現場でも対応した経験が、今の自分の忍耐力を作ったと思っています (笑)

 

Q.高校生の頃からすでにキャリアをスタートされていたんですね。広島時代以降は、どのようにキャリアを積まれたのですか?

 

1983年、YMOが散開する年に高橋幸宏さんが代表務めるプロダクション「オフィスインテンツィオ」にマネージャーの1人として入社したんです。YMO散開後はそれぞれソロアーティストとして、とにかくたくさんの仕事が舞い込んできた。昼にレコーディングスタジオをはしごして、夜はパーティーで朝まで飲んで、起きてまた地方へ移動して・・・・・・という日々でした。そして幸宏さん以外にも日本を代表するミュージシャンたちのマネージメントに関わる仕事もしました。サディスティックミカバンドの加藤和彦さんや小原礼さんギタリストの大村憲司さんなどたくさんのミュージシャンが至近距離にいました。

 

マネージャーの日常も面白い日々だったのですが、個人的にはレコーディングの現場は楽しかった。その後、事務所の組織が大きくなっていくにつれてアーティストのプロデュースもやるようになったんです。結局、幸宏さんの事務所には13年間ほどお世話になりましたが、そうしたトップミュージシャンたちの素晴らしい環境で、たくさんの経験をさせていただきました。

 

情報の中心から離れることで、見えるものがある

藤沢宏光さん

 

Q. その後も、音楽プロデューサーとしてThe BOOMや宮沢和史さんのソロ作品などさまざまなアーティスをプロデュースされていたわけですが、その藤沢さんがなぜ東京を離れて、三崎に居住することになったのでしょうか?

 

2000年代に入ってくると、ITの発達で音楽産業自体に大きな変化が訪れました。まずCDパッケージからデジタル配信への移行が加速。ミュージシャンもDTMが当たり前になり、録音も自宅で宅録して・・・・・・という作り方が一般的になった。それまでの音楽の作り方が根底から変わっていったんです。レコーディングスタジオに入って一瞬の煌きを求め、ヒリヒリするようなサウンドを作り出す・・・・・・というやり方は求められなくなった。編集が簡単になり、ミュージシャンたちは緊張感を持って録音に臨む、ということが少なくなった。その結果、“キャリアのあるプロフェッショナルの制作者”への仕事は激減してしまった。

 

そんなときに、ふと神奈川県の三浦市に転居したんです。海が見える港沿いの古い小さなビルですごく環境が良くてね。当時東京に往復三時間掛けて通勤して、戻ってくると夜は釣りをして、という生活でした(笑)

 

僕は、「音楽の世界からはぐれてしまったのか?」と思いました。

 

Q. 一方でなぜ音楽のプロデューサーがカフェを経営するようになったのでしょうか?

 

地元をこちらに移して生活する中であるとき、今の「ミサキプレッソ」のある場所で、なにかやってみてもらえないか?というお話をもらったんです。

 

カフェをプロデュースしてみないか?ということだったわけです。予算は全く無い中でのディレクションでしたが、やってみようかなと。悩んだ結果「自分が行きたくなるような店を作れば良いのでは」と思ったのです。

 

しかし、やるなら絶対に失敗はしたくない。多岐に及ぶ人脈の中からバリスタの知り合いにコーヒーの淹れ方を指導してもらい、飲食店のプロデュースに挑戦したのです。

 

カフェがオープンすると、東京で音楽の仕事をしている最中でも、「店は、大丈夫なのか?」と気になってしまって、結局、店から離れられなくなりました。その内に次第に三崎から出て行かなくなり、東京の音楽仲間たちと疎遠になりました。やがて「音楽からはぐれてしまって、さみしいなあ」と思っている頃、ひとりふたりとミュージシャンたちが、遊びに来てくれるようになったんです。それはそれは、うれしかったですね。

 

地元の児童合唱団のプロデュースで地域振興

藤沢宏光さん

 

Q.音楽業界から一転、地方都市でカフェの経営者になった藤沢さんですが、なんでまた、『かもめ児童合唱団』をプロデュースするようになったんですか?

 

三崎でカフェを始める2年程前に、『かもめ児童合唱団』と出会いました。プロのミュージシャンとは違った、なんとも言えない拙いような、でも、どうしても気になってしまう歌声に未来への希望を感じました。2008年から『かもめ児童合唱団』のCDの制作を始めました。

 

自宅の地下室を改造して録音スタジオにしていたので、東京からもミュージシャンがのんびりとしたレコーディングに来てくれるようになっていました。その中に伊藤銀次さんL↔Rの黒沢秀樹くんがいて、ある日、黒沢くんが、『かもめ児童合唱団』のために「頼まれてもいないのに、曲を書いてきた」と。それが1STアルバムの表題曲「焼いた魚の晩ごはん」で、インディーズ盤としてリリースしたところ、約3000枚を売り上げました。

 

2013年、ドラマ『泣くな、はらちゃん』(日本テレビ系)の劇中歌「私の世界」は、レコチョクで1位になり、ゆずのアリーナツアーのオープニング曲を歌いました。14年には、元ゆらゆら帝国の坂本慎太郎とのコラボレーションアナログ盤「あなたもロボットになれるfeat. かもめ児童合唱団」を発売しました。

 

そして今年2016年1月にはセカンド・アルバム「インターネットブルース」をユニバーサルミュージックから発売。5月5日には7インチシングル盤も発売され、夏にはアルバム「インターネットブルース」の12インチLP盤も発売されます。ライブ活動は三崎だけでなく神奈川県内の各地や都内で歌っています。

 

 

以上、【A面】では、藤沢さんのキャリアから現在の活動について伺いました。

 

後編となる【B面】では、音楽業界で培われた豊富な経験を元に新たな挑戦をしている藤沢さんの企画に対する考え方と、「企画すること」について迫ります。

 

<つづく>

 

 

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この記事の筆者

Satoshi Kurosaki

Satoshi Kurosaki

情報系ウェブメディアやカルチャー系出版社などで技術職・編集職を経験した後、独立。現在は、フリーの編集者・ライターとして活動する。音楽や文芸などのサブカルチャーやITを専門としつつ、ライフスタイル系にも手を伸ばしたいと思っている30代男性。